【心の充足】 「何をやっても満たされない」のは、理由がありました。あなたを丸ごと満たす大きな愛
麦茶配りから教わった「神様の輝き」
皆さん、こんにちは。厳しい暑さが続く毎日ですが、体調など崩されてはいませんか。この乾いた季節に、ふとした日常の出来事から神様の温かなまなざしを感じたエピソードを、まずはお話しさせてください。
先日、教会のすぐ近くにある公園で、町内会主催の夏祭りが金・土・日の三日間にわたって開催されました。町内の方から「もしよかったら、教会の方々も手伝ってもらえませんか?」という嬉しいお声がけをいただき、私も二日目の土曜日にお手伝いに行ってまいりました。
そこで私が担当したのは、お祭りに来られた皆さんに麦茶を配るという、とてもシンプルなお仕事です。驚いたことに、そのお祭りでは来場者に無料で麦茶やスイカが振る舞われていたのです。照りつける太陽の下、キンキンに冷えたスイカが贅沢に並び、麦茶が惜しみなく注がれる。今の時代に、これほどまでの「おもてなし(ホスピタリティ)」に溢れた場があるのかと、心が洗われる思いでした。
会場は熱気に包まれ、たくさんの方が入れ替わり立ち代わり、喉の渇きを癒そうとやってこられます。結露した冷たい紙コップにお茶を注ぎ、一人ひとりに手渡していく中で、私はあることに気づかされました。それは、麦茶を受け取る時の反応が、まさに「十人十色」だということです。
「いただいてもいいですか?」と丁寧に声をかけ、一口飲んだ後に「ああ、おいしい!ありがとうございます」と満面の笑顔で去っていくお子さんもいれば、一方で、全くの無言で受け取り、目も合わせずにスッと立ち去っていく大人の方もいらっしゃいました。年齢や立場に関係なく、こうした些細な振る舞いの中に、その人の内側にあるものが自然とこぼれ落ちてくるのを感じ、私は考えさせられたのです。
その時、私の心に聖書の一節が浮かびました。 「だから、あなたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙一 10章31節)。
神様の栄光を現すというと、何か特別な偉業を成し遂げることのように感じるかもしれません。しかし、実はそうではないのです。それは、ちょっとした言葉遣いや、日常の些細な仕草を通して、私たちの内側に住まわれるイエス様の輝きを、周りの人にふと感じてもらうことではないでしょうか。
私自身の不完全な人間性ではなく、私を愛してくださるイエス様の温かさや思いやりが、麦茶を渡すその一瞬の動作から、言葉の端々から伝わっていくこと。誰かがその姿を見て「なんだか温かい気持ちになったな」と思ってくれたなら、それこそが「神の栄光」を現すということなのだと、改めて教えられた三日間でした。


信仰がもたらす「平和」と「折れない希望」
私たちが神様を信じ、その愛を受け取って歩み始めるとき、私たちの人生には4つの素晴らしい贈り物(祝福)が届けられます。それは「平和」「希望」「喜び」「愛」です。まずは「平和」と「希望」について、一緒に深く考えてみましょう。
聖書には次のように記されています。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのおかげで、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に預かる希望を誇りにしています。(ローマの信徒への手紙 5:1-2)
一つ目の贈り物である「平和」とは、単に争いがない状態のことではありません。それは、罪によって詰まってしまっていた、神様と私たちをつなぐ「導管(どうかん)」が、すーっと開通したような状態です。 植物に水や養分を送る導管を想像してみてください。もし、ここが何らかの理由で固く詰まってしまったらどうなるでしょうか。水分が全体に行き渡らなくなり、本体は次第に元気を失い、やがて枯れてしまいます。
私たちもかつては、神様に対して背を向け、一方的な絶縁状を突きつけたような「戦争状態」にありました。しかし、神様はそんな私たちに誠実であり続け、イエス様を通して関係を修復してくださいました。この「垂直の平和(神様との平和)」が得られると、不思議なことに、私たちの周りの人々との「水平の平和(人間関係の平和)」にも良い変化が及び始めます。自分の中の刺々しい心が静まり、他者を許す余裕が生まれるのです。悩みの大半を占める人間関係において、全く新しい道が開かれる。それが、信仰によって与えられる最初の平和です。
二つ目の贈り物は「希望」です。 ここでいう希望とは、将来に対する漠然とした期待ではなく、「神様の輝きを放って生きる者へと変えられる」という揺るぎない確信です。かつてアウシュビッツ収容所という過酷な状況下で、誰が生き延びることができたかを調べた研究がありました。明暗を分けたのは、体力や年齢ではなく「いつか家族に会える」「いつか家に帰れる」という希望を、最後まで捨てなかったかどうかだったと言われています。希望が失われたとき、まず心が死に、その後に体が力尽きていったのです。
今の現実がどれほど苦しくても、将来に確かな希望があれば、人は今日を生き抜く力を得ることができます。私たちは、いつか新しい天と地で、神様の美しさを完全に映し出して生きる者となります。その「絶対に裏切られることのない希望」が、今の私たちを根底から支え、何度でも立ち上がらせてくれるのです。
どんな状況でも奪われない「たくましい喜び」
三つ目の贈り物は「喜び」です。聖書は、私たちが順風満帆な時だけでなく、むしろ苦難の中にあっても喜ぶことができると教えています。
そればかりでなく、苦難をも誇り(喜び)とします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマの信徒への手紙 5:3-4)
「苦しい時に喜ぶなんて、そんなの無理だ」と思われるかもしれません。私自身、人生の壁にぶつかった時には、そう思うことが何度もありました。しかし、クリスチャンが持つ喜びは、単なる一過性の「感情」ではありません。それは、嵐の中にいても、大きな親鳥の羽の下で守られている雛鳥のような、絶対的な安心感。神様が共にいてくださるという事実に根ざした「意志」に近いものです。
私たちの日常には、思いがけない苦難が訪れます。仕事での手痛い失敗、信頼していた人からの裏切り、あるいは経済的な不安……。しかし、こうした苦難は、それだけで終わることはありません。主が共にいてくださる中で苦難を通るとき、私たちは「忍耐」を学び、その忍耐を通して「練達(れんたつ)」、すなわち魂のしなやかさと深みが身についていきます。この練達が、さらに強固な希望へと私たちを導くのです。
苦難は、神様の愛をより深く体験する貴重な機会となります。自分が倒れそうになれば引き上げ、立ち上がれなければ背負ってくださる神様の姿を、私たちは平穏な時よりも、むしろ困難の中でこそ発見できるからです。状況に左右されず、誰にも、どんな環境にも奪われることのない「たくましい喜び」。これが、私たちの人生という旅を力強く進めるエンジンとなるのです。
あなたの心の「神様の形をした穴」を埋める愛
さて、最も大切で四つ目の贈り物である「愛」についてお話ししましょう。これが、私たちの心の奥底にある最も深い渇きに関わっています。
17世紀のフランスの哲学者パスカルは、「人間の心には、神様の形をした穴がある」と言いました。私たちの心の中心には、ぽっかりと開いた暗い穴があり、私たちはその虚しさや寂しさを埋めようと、必死に手を尽くします。 例えば現代を生きる私たちは、SNSでの「いいね」の数で認められたいと願ったり、次から次へと新しい物を買い求めたり、あるいは過度に特定の誰かに依存したりして、その穴を埋めようとします。しかし、どれほど手に入れても、一瞬の充足感の後にやってくるのは、より深い空虚感ではないでしょうか。なぜなら、神様の形をしたその穴は、神様以外の何ものでも、決して完全に満たすことはできないからです。
聖書は、この穴を埋める唯一のものが「神様の愛」であると語ります。
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。……しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマの信徒への手紙 5:5、8)
ここには、世の中の計算高い愛とは全く違う、圧倒的な愛の姿があります。普通、立派な人のためなら命をかける人はいるかもしれません。しかし、神様の愛は、私たちがまだ弱く、自分勝手で、神様を無視して生きていた「罪人」であった時から、すでに注がれていたのです。
神様は、あなたの行いや価値を見て愛されたのではありません。「愛すること」そのものが神様の性質だからです。イエス様が十字架で命を捨てられたのは、あなたの心の穴をその愛で満たし、あなたを本来の輝かしい姿に戻すためでした。この一方的で、見返りを求めない愛を「私への愛だ」と受け取るとき、私たちの長い心の渇きは、ようやく癒やされるのです。
互いに愛し合う、新しい人生のスタート
神様の大きな愛に触れ、自分の心の穴が温かく満たされた人は、自然と周りの人々に対しても新しい視点を持つようになります。自分自身のコップが愛で溢れているからこそ、その溢れた分を誰かに分かち合えるようになるのです。
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙一 4:7-11)
「自分には人を愛する余裕なんてない」と、自分を責めてしまう時もあるかもしれません。でも、どうか思い出してください。私たちがまず愛したのではありません。神様が先に、あなたを、そのままのあなたを愛してくださったのです。この「私は徹底的に愛されている」という土台の上に立つとき、私たちの人生は、自分のために何かを奪い合う人生から、喜びを持って分かち合う人生へと、新しく作り変えられていきます。
神様との間に「平和」をいただき、「希望」を胸に抱き、「喜び」を力として、「愛」の中で生きる。これ以上に価値のある、美しい人生があるでしょうか。信仰によって義とされ、新しい命をいただいた私たちの歩みは、こんなにも豊かな祝福に満ちているのです。
どうか、この記事を読んでくださっているお一人おひとりが、この4つの祝福をしっかりと受け取り、その温かさの中で歩まれますように。
最後に、心を込めてお祈りいたします。
「天のお父様、今日この言葉を読んでくださった方を祝福してください。日々の生活の中で、ふとした瞬間に乾きや寂しさを感じることがあるかもしれません。どうか、その心の穴をあなたの豊かな愛で満たしてください。神様との平和、将来への揺るぎない希望、苦難をも乗り越える喜び、そしてすべてを包むあなたの愛を、その方の人生に豊かに注いでください。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。」
投稿者プロフィール
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ヨハン東京キリスト教会で執事をしています。職場の同僚に誘われて初めて教会を訪れてからすでに30年近くたとうとしています。
教会運営やボランティア活動に参加しながら、インターネット宣教の一環でこのWEBサイトの運営もしています。人生のつらい経験も主のご計画があると信じて、御言葉とともに歩んでいます。



