「忙しい」が口癖になっていませんか ~多忙の陰に隠された、本当に大切なこと~
みなさん、こんにちは。
現代社会を生きる私たちは、誰もが「忙しい」という言葉と無縁ではいられません。仕事、家庭、学業、そして教会での奉仕…。気づけば、カレンダーは予定で埋め尽くされ、時間に追われるように毎日が過ぎていく、という方も多いのではないでしょうか。
「忙しい」ことは、一見すると充実している証拠のようにも思えます。しかし、ふと立ち止まって考えてみたいのです。「その忙しさ、本当に神様が望んでおられるものでしょうか?」
忙しさの陰に隠れているもの
ある人が「多忙は怠惰の隠れ蓑である」と言いました。 ドキッとする言葉ですが、これは「忙しく動き回っている」ことによって、「本当に向き合うべき大切なことから目をそらしている」という精神的な怠惰を指しているのかもしれません。
- 「忙しいから」、ゆっくりと聖書を読み、神様と対話する時間が取れない。
- 「忙しいから」、礼拝や祈祷会で深く祈る余裕がない。
- 「忙しいから」、教会の兄弟姉妹が抱える悩みや、新しく来られた方への配慮ができていない。
- そして何より、「忙しいから」、すぐそばにいる隣人の苦しみや、小さな助けを求める声に気づかない…。
もし、私たちの「忙しさ」が、神様との関係や、隣人への愛といった、教会にとって最も本質的なことを見えなくさせているとしたら、それは大変なことです。
マルタとマリアの選択
聖書の中にも、この「忙しさ」と「本質」について考えさせられる場面があります。 マルタとマリアの姉妹の話です(ルカによる福音書 10章38節~42節)。
38一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
聖書 新共同訳:©︎共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
©︎日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
イエス様は、マルタの「もてなし(奉仕)」そのものを否定されたわけではありません。しかし、その「忙しさ」のあまり、最も大切なこと、すなわち**「主の御言葉を聞く」という本質**を見失っていたマルタを、優しく諭されたのです。
「忙しい」からこそ、立ち止まる勇気を
私たちの教会生活や日々の歩みも、同じではないでしょうか。 多くの奉仕や活動に追われるあまり、その活動の「目的」であるはずの、神様との交わりや、隣人への愛という「本質」を見失ってしまってはいないでしょうか。
「忙しい」と感じるときこそ、自分自身に問いかけてみましょう。
- 私は今、何のためにこんなに忙しくしているのだろう?
- この忙しさは、神様の栄光と、隣人への愛に繋がっているだろうか?
- 「忙しい」ことを理由に、誰かの助けのサインを見落としていないだろうか?
- 教会という「キリストのからだ」の一部として、痛みや苦しみを抱えている兄弟姉妹に気づけているだろうか?
「忙しいこと」が悪いわけではありません。しかし、その忙しさが、神様から目をそらし、隣人への心を閉ざす「隠れ蓑」になってしまっているとしたら、私たちは勇気を持って立ち止まり、軌道修正する必要があります。
本当の豊かさを見失わないために
まずは、一日に数分でも良い、すべてを置いて静かに神様と向き合う時間(デボーション)を確保することから始めてみませんか。
そして、教会に来たときには、意識して周りを見渡し、一人ひとりの表情に目を留め、声をかけることから始めてみませんか。「忙しいから」と通り過ぎていたかもしれない、小さな必要や痛みに気づくことができるかもしれません。
「忙しさ」という流れに身を任せるのではなく、神様が私たちに本当に求めておられること、教会が本来果たすべき役割(=神を愛し、隣人を愛すること)に、もう一度、私たちの心の焦点を合わせましょう。
私たちの「いそがしさ」が、神様と隣人に仕えるための、喜びに満ちた「いそがしさ」となりますように。



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