“愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、 神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、 神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、 わたしたちも互いに愛し合うべきです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 “

  現代の問題は、純潔の愛が汚染されていることでしょう。今日の御言葉は、愛が汚染された人への 福音です。

  信仰と愛は、不可分の関係にあります。人々がこの世の中でいかに生きるべきかを示しています。例えば、神は全能であるとか、永遠であるということも言えますが、この手紙の著者であるヨハネは、 神は『愛』であるという、神の「品性」をここで現そうとしました。

  私がタイに行ったとき、現地の人がこよなく愛するフルーツがあることを知りました。 それは「ドリアン」なんですが、タイでは「自分の妻を売ってでも、ドリアンを食べたい」という ほど、癖になる美味なんだそうです。しかし、あまりに美味しいために、その味を説明する言葉に 窮するほどです。
  同様に、神様の愛を味わったことがなければ、神様の愛を説明できないのです。キリストは、 私たちの犠牲の捧げものとなってくださったのです。キリストは、神様の宣教師です。十字架は、 最高の愛の形なのです。私たちが、まだ罪人であったとき、十字架を背負ってくださいました。 神様を知るからこそ、愛を知るのです。愛は神様に属し、愛することで、神様を知るでしょう。 頭だけで悟っても、実践しないなら、たとえ聖書を読んでも変化がありません。御言葉を生きる中で 実践してこそ、意味があるのです。

  また、愛は感情で評価するものでもありません。愛するからでは なく、愛するために生きるのです。

  あるカップルのデート中、綺麗な花が咲いていました。彼女が、 彼に「あのお花を持ってきてくれる?」と聞くと、彼は「それはお前のものかよ!!」と。愛する形を 見れば、その人の器の大きさ、質を知ることができます。

  9・11テロ事件は、愛と家族の大切さが冷え切った現代に、神様から与えられたプレゼントと いえるでしょう。

  愛する人や、家族を失った悲しみを、もう一度教えてくれたのです。私の子供たちが 、渡米するときに、一番反対したのは、母親でした。家族とともに暮らすことが、幸せだからです。

  私は、はじめて母親に「お母さんを愛します。」と言葉で伝えました。そうすると、母親も、「私も あなたを愛しますよ。」このはじめての言葉が、私の身体を興奮させました。涙が込み上げてきました。 「愛する」という言葉が、どれほど人生を支えてくれるでしょうか。


  携帯電話のような先端技術を持っていれば、お年寄りも精神年齢が若くなります。10代は文字世代。 20代は、メッセージと文字世代。30代は、メッセージのみ。40代以上は、今何の話をしている か、わからない(笑)。「お父さんを尊敬し、愛します」と息子からメッセージをもらった時の 感動は、涙なしにはありません。お父さんを愛すると聞いたとき、人生の山を登り終えたような 幸福感を感じました。

  私自身は、父親と母親に対する愛について、TV番組を通して伝えました。 それを観た両親が、「私も息子を愛しているよ。」と言ってくれました。”愛するからではなく、 愛するために生きる”のです。

  物や性的な誘惑も人間をだめにすると言いますが、最大の誘惑は、偽りの誘惑、憎みの誘惑です。

  「この世で愛される資格のない人が、一番愛を必要としています。」試験に失敗した子、 家族で問題児とされている子ほど、特別に愛さなくてはならない子供です。敵を愛せよ、 と主は仰いました。私たちは、敵を愛することができないとされています。良きサマリア人は、 どうしたでしょうか。

  ルカ 10:27 “彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、 彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に 油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してく ださい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが 追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 “

  良きサマリア人は、自分が持っていたものを与えたのです。自分の全財産を与えたわけでは ありません。デナリオン銀貨1枚は、当時彼らにとって1か月分の給料に相当したとか。また、 油とぶどう酒は、特にサマリア人に必要だったわけではなく、何かあった時のための常備薬のような ものでした。自分の持っている範囲で、それをただ分け与えただけなのです。しかし、この良き サマリア人のように愛することで、神の愛に近づいていくのです。

  第1ヨハネ4:21で、神様から新しい掟を与えられました。”互いに愛し合いなさい。”愛しながら 生きる時、全ての人が主の弟子と呼ばれるのです。最も愛せない人、愛されない人を愛すること。 「お父さん、愛します」と一言親に話しかけること。それこそ、主の弟子である証拠となるのです。 そうして愛の家庭が完成します。