私たちのヨハン教会は聖書を重んじる福音的なプロテスタント教会です。「宣教・訓練・賛美」を掲げています。
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家庭牧会セミナー

ヨハン早稲田キリスト教会にて家庭牧会セミナーが行われました。
ソンギルウォン牧師(Hi Family代表、韓国・愛の教会協力牧師)を通して、
たくさんの恵みと家庭生活におけるビジョンをいただきました。
セミナーのレビューを紹介します!
 バラの花は、一度も人を誘わないのに、人々はバラの魅力に惹き寄せられます。バラは『薔薇』という名前で無くても、たとえその名前が『菊』だったとしても、そのものの持つ美しさが、人々を魅了するのです。人も同じく、各々が持つ≪人格≫が人を引き寄せる香りを放ちます。人生で一番大切なのは、『人格』なのです。人格を耕すことが、その人の運命と未来を決定します。失敗する人には、失敗する習慣があるのです。勉強できる人には、勉強する習慣があります。『習慣』が、人生を変えることができるのです。

 イエス様にも習慣がありましたね。オリーブ山ヘ行くという...。習慣の根は、『行動』です。決心するだけでは、行動できるわけではないのです。例えば、お金持ちになりたい、社長になりたい、と決心しますが、誰でも実現するわけではないですね。すなわち、大切なのは『行動』です。その行動の根は、『考え』です。聖書では、考えについてより多く語られています。ユダの心にイエス様を裏切る考えを与えられました。サタンは、人々の考えを惑わし、左右するのです。

 今まで皆さんは、自分の『考え』について祈ったことはありますか?私たちは、○○したい、○○になりたい、○○が欲しい、ということは良く祈りますが、『考え』については、あまり祈りません。私たちの『考え』こそ、祈らなければなりません。
 私は大学時代哲学を専攻していましたが、大学1年の時に教授と大喧嘩して以来、どんなに頑張ってもCしかもらえませんでした。学部を卒業する時に、もう二度とあなたに会うことはないだろうと言い残して来ましたが、まさか義理の父になるとは、夢にも思いませんでした(笑)。

 反キリスト的な誤った理論(考え)を正すことが学問です。つまり、『考え』というのが、私たちの運命を変え、未来を変えるのです。私たちがもっとも危険視すべきなのは、『固定観念』(=壊れた考え)です。アイス・ブレイキング(ice breaking)というのは、即ちお互いの凝り固まった考えを壊して、溶け合うようにすることなのです。

 イエス様を信じれば、全てが上手くいくという、誤った固定観念を壊しなさい。
聖書は、たったの1度も、信じれば上手くいくとは教えていないのです。コヘレト7:14を見てみましょう。順境のとき、神様は私たちに幸せになることを望んでおられます。英語では、Be happy!と書かれているんです。では、逆境の時は、どう考えればよいのでしょう。人生の広さではなく、深さを考えるようにするのです。改めて、本当の価値とは何かを考えるようになるでしょう。

 私たちの人生において、突然荒野に出される時があります。荒野は不安や絶望、憂鬱に満ちています。しかし、その荒野を通りぬけ、走り超える時、抜け出した深さで、その人の人格が判断できるでしょう。神様を信頼して生きるようにと、私たちには、順境と逆境を併せ造られたのです。


 ある航海中の出来事です。突然嵐に船が襲われました。何とかして生き延びようとする人々の中で、ある老夫婦は、終始穏やかな平和な心であったそうです。彼らには2人の娘がいて、1人は事故で失い既に天国におり、もう1人は、船で向かっているボストンにいました。もし今ここで死んだら、天国で娘と出会えるし、もう1人の娘ともいずれ天国で出会えるでしょう。もし生き延びれば、ボストン港に到着して娘に出会えるでしょう。だから、不安なことは全くなかったのです。考えが、人の心を平和に、幸せにもするのです。

 共に召された聖い兄弟たちよ!祭司長であるキリストを想いなさい。視線を一箇所に集中させるのです。二台の戦艦が、夜の海を競って走っていました。御互いに、「20°矛先を変えろ!」と言い合いになっていました。片方の船長は、今まで獲得した勲章は数多く、実力もありました。しかし、灯台の前では、どんなに優秀な船長であっても、灯台を中心にして矛先を変えなければならないのです。灯台を前にして、権威もキャリアも意味をなさないのです。競争力を常に覚えて生きなさい。競争力を無くしたら、勝ち残れません。

 名家・名門出身、顔やスタイル、ルックスが良くて、背が高くなければ、競争力がないでしょうか?韓国では、歳が競争力なんですね。何かあると、すぐに相手の年齢を尋ねます。しかし、交際するのに歳が必要でしょうか?結局、人の『考え』が不幸を招きます。考えこそ、競争力です。これを養いましょう。どっちみち、戦場に来たのなら、勝つか、負けるかです。人は考えどおりに生きます。負ける人は、生きる通りに考えます。一生、幸せになるには、『考え』を変えることです。私たちの考えをイエスに固定することで、人間関係に変化が起こります。

 私は子供を持つ父親になったことで、地にひれ伏して御辞儀をしたいほどに、神様から生きる喜びを与えられました。「息子よ、お前が私の十字架だよ。」 親になって、忍耐すること、赦すことを学びました。信じて、その子に希望を与えること、これが親の心です。子供がもたらす祝福がわかることは、神様の祝福を知ります。「世界で一番尊敬するのは、お父さんだよ」息子から、そう言われた時の感動は涙なしには語れません。子供にとっての英雄となることは、親にとっての最高の祝福です。 考えをイエスに固定することです。
 結婚して得られる喜びは、想像を遥かに超えています。子供をたくさん産むことです。
 留学のため渡米した息子のもとへ、母親が尋ねて行きました。韓国から国際電話をかけると、「お母さんが一緒にいるから、さぞ天国のようだろうね。」と尋ねると、息子は「お父さんがこちらに来たら、天国だよ」と返ってきました。父になったことで、お父さんは死ぬまで、子供たちの天国になる、と決心しました。新郎・新婦となり、夫と妻となり、そして今は永遠の魂の親となったのです。これほどの幸せがあるでしょうか。

 私と妻とは、性格は全くの正反対です。利き手も逆だし、私が得意なことは、妻は苦手です。例えば、私は食器を使ったらすぐに片付けないと気が済まないタイプですが、妻は家にあるカップを全部使い切るまでは、洗う気が起こらないというタイプなのです(笑)。最初は、いつも妻に対し不平不満を言っていました。しかし、それが私の賜物だったのです。主は、妻ができないなら、できるあなたがやりなさい、と仰いました。

 自分に与えられたGiftはなんでしょうか?実は、自分が誰かに対して不平不満を言っていることが、そうなんです。相手ができないことを、自分がやればいいのです。できない部分を補い合うこと。それが、愛の共同体であり、できない人のために仕える時、その人が変わります。自分の考えでは、相手を怒ったり裁いたりしてしまいますが、イエスに視線を固定すると、欠点が長所にかわるのです。それが愛であり、互いに仕え合う姿をみて、主は喜ばれるのです。

 社会的な地位や、権威、財産が幸福でしょうか。考えを変えると幸せになります。不安や疑い、偏見を取り除き、聖さのみが残るように、主が与えて下さる考えで、私たちを喜びで満たして下さいますように、主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。

  "愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、 神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、 神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、 わたしたちも互いに愛し合うべきです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。 目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 "

  現代の問題は、純潔の愛が汚染されていることでしょう。今日の御言葉は、愛が汚染された人への 福音です。

  信仰と愛は、不可分の関係にあります。人々がこの世の中でいかに生きるべきかを示しています。例えば、神は全能であるとか、永遠であるということも言えますが、この手紙の著者であるヨハネは、 神は『愛』であるという、神の「品性」をここで現そうとしました。

  私がタイに行ったとき、現地の人がこよなく愛するフルーツがあることを知りました。 それは「ドリアン」なんですが、タイでは「自分の妻を売ってでも、ドリアンを食べたい」という ほど、癖になる美味なんだそうです。しかし、あまりに美味しいために、その味を説明する言葉に 窮するほどです。
  同様に、神様の愛を味わったことがなければ、神様の愛を説明できないのです。キリストは、 私たちの犠牲の捧げものとなってくださったのです。キリストは、神様の宣教師です。十字架は、 最高の愛の形なのです。私たちが、まだ罪人であったとき、十字架を背負ってくださいました。 神様を知るからこそ、愛を知るのです。愛は神様に属し、愛することで、神様を知るでしょう。 頭だけで悟っても、実践しないなら、たとえ聖書を読んでも変化がありません。御言葉を生きる中で 実践してこそ、意味があるのです。

  また、愛は感情で評価するものでもありません。愛するからでは なく、愛するために生きるのです。

  あるカップルのデート中、綺麗な花が咲いていました。彼女が、 彼に「あのお花を持ってきてくれる?」と聞くと、彼は「それはお前のものかよ!!」と。愛する形を 見れば、その人の器の大きさ、質を知ることができます。
  9・11テロ事件は、愛と家族の大切さが冷え切った現代に、神様から与えられたプレゼントと いえるでしょう。

  愛する人や、家族を失った悲しみを、もう一度教えてくれたのです。私の子供たちが 、渡米するときに、一番反対したのは、母親でした。家族とともに暮らすことが、幸せだからです。

  私は、はじめて母親に「お母さんを愛します。」と言葉で伝えました。そうすると、母親も、「私も あなたを愛しますよ。」このはじめての言葉が、私の身体を興奮させました。涙が込み上げてきました。 「愛する」という言葉が、どれほど人生を支えてくれるでしょうか。

  携帯電話のような先端技術を持っていれば、お年寄りも精神年齢が若くなります。10代は文字世代。 20代は、メッセージと文字世代。30代は、メッセージのみ。40代以上は、今何の話をしている か、わからない(笑)。「お父さんを尊敬し、愛します」と息子からメッセージをもらった時の 感動は、涙なしにはありません。お父さんを愛すると聞いたとき、人生の山を登り終えたような 幸福感を感じました。

  私自身は、父親と母親に対する愛について、TV番組を通して伝えました。 それを観た両親が、「私も息子を愛しているよ。」と言ってくれました。"愛するからではなく、 愛するために生きる"のです。

  物や性的な誘惑も人間をだめにすると言いますが、最大の誘惑は、偽りの誘惑、憎みの誘惑です。

  「この世で愛される資格のない人が、一番愛を必要としています。」試験に失敗した子、 家族で問題児とされている子ほど、特別に愛さなくてはならない子供です。敵を愛せよ、 と主は仰いました。私たちは、敵を愛することができないとされています。良きサマリア人は、 どうしたでしょうか。

  ルカ 10:27 "彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、 彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。 追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に 油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、 翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してく ださい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが 追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 "

  良きサマリア人は、自分が持っていたものを与えたのです。自分の全財産を与えたわけでは ありません。デナリオン銀貨1枚は、当時彼らにとって1か月分の給料に相当したとか。また、 油とぶどう酒は、特にサマリア人に必要だったわけではなく、何かあった時のための常備薬のような ものでした。自分の持っている範囲で、それをただ分け与えただけなのです。しかし、この良き サマリア人のように愛することで、神の愛に近づいていくのです。

  第1ヨハネ4:21で、神様から新しい掟を与えられました。"互いに愛し合いなさい。"愛しながら 生きる時、全ての人が主の弟子と呼ばれるのです。最も愛せない人、愛されない人を愛すること。 「お父さん、愛します」と一言親に話しかけること。それこそ、主の弟子である証拠となるのです。 そうして愛の家庭が完成します。

  "また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 "

  ここに登場してくる『放蕩息子』に注目すると、見失うものがあります。それは、父親の存在です。失われていた息子のように、失われた父親を見ることができます。

  二人の息子がおり、病で寝込んだり、年をとって動けなくなったりしているわけでもなく、息子が結婚したという記述もありませんから、恐らく中年ぐらいの父親でしょう。放蕩の限りを尽くした息子は、さらに財産をくれ、と頼みに来ます。普通の親なら、激怒することでしょう。このような誤った発言に対し、大いに怒ってもよかったのに、父親は赦したのです。ここに、力なき全能者の姿があります。

  全宇宙を支配する神が、これほど力を無くすとは、一体どうしたことでしょうか?この父親に、何の力があるというのでしょう?何故これほど無力な父親として描かれなければならないのでしょうか。15:21と15:29の間には、大きな違いがあります。ある人は、前者は悔い改めて帰ってきた息子、後者は妬みに燃えた不平不満をつぶやく息子であると。下の息子は、父親に向かって、「お父さん、」と呼びかけています。ここに注目しましょう。こう呼びかけるのは、父親の権威を尊重している証拠です。一方、上の息子は、「お父さんに、」と行っているのに気づきますか?「お父さん、」と「お父さんに」には、大きな差があります。上の息子の発言は、父親の権威を脅かし、弟の命を奪わんばかりであります。

旧約聖書のエステル記を読むと、アーサー王が、大宴会を催したシーンが出てきます。しかし、王妃のせいで、王の面子が台無しになってしまったのです。そんな王妃を、王はほったらかすことはできません。もう、心は怒り上がるようでした。そうして、王妃を退位させたのです。そこまでするのが、ユダヤの方式です。しかし、父は子に手を下さないのです。神に対し、私たちが指差せば、全ての指差しは、自分に向けられるのです。私たちの中で、罪の無いものがいるでしょうか。もし、神が私たちの罪・とが・過ち一つ一つを裁かれるなら、誰一人、主を礼拝し、賛美することはできないでしょう。神様は、だからこそ無気力でなければならないのです。しかし、決して無気力なのではありません。私たちが救われるために、忍耐強く長く長く待っておられ、あまりの熱情をもって、私たちを愛しておられるのです。


  長男を見てみなさい。彼は、たった子羊一匹にこだわって、腹を立てているのです。それゆえ、長男は、父と呼びませんでしたが、父親の方は「子よ!」と呼んだのです。28節を見ると、父親が出てきて、なだめた、とあります。どうしてその方が手を合わせて、おねだりしなければならないのでしょうか?神様の方がねだり、子供たちにお願いするのです。神様が用意した宴会に招待するために、命の宴会に入ってくるように、願っているのです。20節を見ると、まだ、遠くにいる息子のところまで走り寄っていく父親の姿があります。ずっと、本当に会いたかった息子が帰ってきたのです。あまりにも嬉しくて、父親自ら走っていきました。

  当時の中東の状況を研究した学者によると、気候の都合により走りたくても走れない環境にありました。また当時の服装は、今日のような2ピースではなく、ワンピースでしたから、走るためには、服を捲し上げなければならず、肌をさらけ出すことは恥ずかしいとされている文化の中では、相当な勇気のいることでした。またそもそもその地は、聖なる土地であるから、走って汚してはならなかったのです。さらに、放蕩息子のことは、村全体にも知られていました。このような脱落者のような息子の行いは、共同体意識の極めて強い村においては、村全体を傷つけたことにもなるのです。だから、村に帰ってきた息子を見つけるやいなや、村のみんなが、彼を殴りつけ、つばをはきつけ、倒される危険性もあったのです。大切な息子を、そうされてはたまらない、と、村の者に発見される前に、自分から鎧になってあげようと、父親は走りよったのです。父親は、愛によって、覆ってあげたのです。

  イスラエルでは、もっとも貧しいものの象徴として「豚」が使われます。ユダヤ人は本能的に、豚を嫌います。15:16に書かれているように、豚の食べる「いなご豆」というのは、最底辺の貧しさを示しているのです。世界が何でも私にあげるようにいいますが、それはあり得ません。Nothing! この世が、この放蕩息子に与えてくれたものは何もなかったのです。15:22しかし。父は与えました。父は、その子の状況を、人目みて分かったのです。息子の恥を理解したのです。ただのジーンズとTシャツではなく、最も良い服を持ってきて、さらに子牛を贈ったのです。最高のもので、Specialなのです!!神様は、家を去った息子を奴隷でも僕でもなく、一番良いもので満たしてくださる御方です。同様に、父が与えた「指輪」は、相続権を意味します。神様の愛は、際限がないほどに、もっともっと豊かに与えて下さいます。

  詩編23篇を読んで見ましょう。He is my Shepard. 私の羊飼いとなってくださった故に、惜しいものはないのです。主が、私の人生の導き手となって下さいました。神様は、息子を赦してあげました。彼の誤った過去をいちいち問いたださなかったのです。神様の赦しを信じましょう。15:30自分の弟のことについて、風のたよりで聞いたのか、ただ財産を無駄遣いしたとしか書かれていないのに、娼婦と共に身上を食いつぶしたと罵り、兄弟とも認めていない様子です。なぜなら、「弟」のことを、父親に向かって、「あなたの息子」と言っているからです。さらに、弟が戻ってきたことを、ただ無くし物が返って来たように、単なる物理的次元で話しているのです。そんな長男に対し、15:32で父親は、「あなたの弟」と、兄弟の関係を回復させています。父にとっては、単なる物理的次元ではなく、命の次元なのです。

  第1コリント13章の「愛」を「父」に置き換えて読んで見て下さい。
"父は忍耐強い。父は情け深い。ねたまない。父は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。"

  神の愛とは、父の姿なのです。今もこのように私たちを愛しておられます。私たちが父の愛を見つけたとき、天国を見るのです。最後まで正直でありなさい。そして、神様に祈りなさい。子供たちと一緒に、神の愛を体験することを祈ります。私たちは、そんな神の愛を伝えていきましょう。私たちには人を変えることができませんが、神の愛は人を変えられます。ルカの15章は、未完成です。それは、1人の方によって、完成されます。自分自身が主の元へ戻るとき、主が示して下さった父の愛に戻るとき、心に天国が宿るのです。父の愛がまだ足りずに、憎しみ合う人こそ、愛する対象です。神様が私たちにねだっておられます。何一つ足りないものがないように、惜しみ無く豊かに与えて下さる主の家に帰ることを...。

  皆さん、愛するために生きましょう。愛は感情と誤解しないようにしてください。ロマンスは愛が始まる鐘の音にすぎなません。愛は技術なのです。どうやって愛する人を満足させるかを考えるのです。

  愛はLOVEですね。私は言葉遊びが好きなので、皆さんにLOVEのテクニックをL・O・V・Eで教えようと思います。

  第一に、LはLaugh、笑いを提供することです。愛される人になるためには、相手をまず笑わせましょう。smileは最も長い単語ですね。たった1回の微笑みが、1マイル走る力を与えてくれるのです。微笑みこそ、私たちに希望と喜びをほどいてくれます。誰かに微笑むことは、喜びの花を咲かすことでもあるのです。土地も笑いますね。大地は花を咲かせて笑うのです。10:10はマーケティングの理論です。笑うから楽しくなります。笑いによって喜びを与えてくれる人は、ユーモアに溢れた人でしょう。心の余裕のある人でもあり、情緒豊かな人でもあるでしょう。愛する人に与えられるもの、それは『笑い』。ユーモアを使って、相手の痛みや苦痛を和らげてあげましょう。

  そして第二に、OK! "You're OK!"という一言が、相手を元気付けます。何よりも人をほめる技術を向上させてください。愛を長~く保つこと。相手をほめてあげることです。たった一滴の蜂蜜が、多くの蜂を呼び集めることができるのです。ある子供に、先生の髪型は可愛いと褒められました。その褒め言葉が、どれほど私を興奮させたでしょうか。私をほめてくれた人がいるのです。人生が楽しくてしょうがなくなります。自分で自分を褒めることも大切です。体重を5kg落とした時、自分のためにご褒美を買ってあげました。自分で自分を褒めることができれば、他の人をいっぱい褒めてあげることができます。そんな人は、愛を長く保つことができるのです。褒める力が、リーダーシップです!

  第三は、Victory!勝利です。昔win winという言葉がはやりましたが、これは共同勝利作戦とでもいうべく、お互いが呼吸を合わせることです。例えば、男性の脳には狙いを定めて照準を合わせる本能があります。女性は口が軽いという特性があります。イエス・キリストの復活の知らせをいち早く広めるには、女性の口を用いた方がいいと、復活して最初に女性たちの前に現れたのかもしれませんね(笑)。お互いに性質が違うのですから、相手のニーズを知ることが大切です。夫婦は常に一緒にいることが大事です。離れてはならないのです。そうすることで、お互いの必要がわかります。これが夫婦であり、共に勝利することを知るでしょう。

  そして最後は、Enjoy!喜びです。付き合う喜び。趣味や人生の目的が一緒ならなおさら良いでしょう。一緒に分かち合い、時間を共有することで、喜びを分かち合うことができます。本を読むのも、スポーツをするのも、お互いが共有できればできるほど、喜びが溢れます。
LOVE・・・これ以上に美しい言葉はありません。

 

 "だから、以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。"

「愛してる」と一言言えばどうでしょうか?幸せとは、練習する人が得るものです。今を誠実に生きている人は、永遠に幸せに生きるでしょう。明日に明日にと、今日すべきことを延ばしている人に、予約された幸せはありません。明日に先延ばししてはダメなのです。私たちは、幸せにならなければなりません。

クリントン元大統領の政権下、米国労働省長官を勤めていた男性の実際にあった話です。彼にはまだ小さい息子がいました。子供にとって、寝ている間にもパパが側にいることを確認したいものです。自分の父親が母親を捨てた経験をもっていたこの男性は、長官職を辞める決意をしました。彼は、長官職を辞めた後、何物にも変えられない喜びを知ったと告白し、全米の父親を泣かせました。誰も経験したことのない生活で、喜びと幸せを得たのです。

 たとえ健康を一時的に失ったとしても、神様に出会えれば最高に幸せなのです。病気にならなければ幸せではなかったという人もいます。昔、お金に穴をあけて、人々はその穴から世界をみつめていたといいます。しかし、人間はその穴をふさいでしまいました。その結果、お金しか見えなくなった、とか。お金があれば人を呼び集められたとしても、友情までは買えないのです。ベッドを買ったとしても、安眠は買えません。

  馬鹿は、必ず決心だけはします。これは、自分で自分をだますことです。自分自身をだますのは、あまりに残忍です。人はすぐに合理化して、自分をだまします。例えば、テストの前になると、計画を立てます。計画までばっちり立てた後、では明日からやろうと、寝てしまいます。決心だけは、限りなくし続けるのです。

  では、決心を実行に移すには、どうしたらいいでしょうか?例えば私はタバコをやめられませんでした。一本吸うと、またもう一本と吸いたくなるのです。そこで、決してタバコを吸わないと、家族の前で告白しました。そうすることで、自分の面子にかけても、もう二度と吸わないと決心は強くなるのです。例えば、ロミオとジュリエットは、周りから反対されればされるほど、愛を深めていきました。人間というのは、反対されればされるほど、やりたくなってしまうのです。もし反対されなければ、1年も持たなかったかもしれません。

滅びに向かっている古い自分を脱ぎ捨てなさい。改心した人が、昔の習慣のままなら、豊かな人生を歩む新しい人にはなれないのです。それを得たいのなら、昔の古い習慣を捨てなければなりません。習慣の範囲は広いのです。タバコのように、1・2回と思って始めたことが、習慣になってしまうまで、軽んじてしまったのです。健康も習慣です。まず肉体をコントロールする必要があります。肉体を制御するよう、健康習慣も考えなさい。食べ物の摂取について、自分の肉体のために責任をとらなければなりません。敬虔な生活のためには、身体もコントロールする必要があります。

また性格も、遺伝ではなくて、習慣です。自分の性格もコントロールすることです。表情を変えると、心も変わります。顔の中に神様の喜びと平安があれば、周りの人々にも余裕と平安を与えることができます。あなたの表情を主にささげてください。そして、新しい習慣を身につけることです。ほったらかしにしていたら、すぐに嘘や偽善の根が湧いてきます。法律でも人を変えることはできないし、決心だけでも、私を変えることはできません。義と真理と聖さを求め、清く区別された者となりなさい。主の前で、常に悔い改めることです。聖さへの熱情をもって世俗と戦う「聖さ」こそ、力です。古い自分に心を動かされないように。

  どうやったら神様に近づくことができるでしょうか?新しい人生のためには、習慣をつくることです。敬虔も習慣です。ダニエルの友人も、いつもどおりに祈った、とあります。習慣をつけることです。そこまで自分を磨ききったら、それが強さです。信仰の全てが習慣になるまで、磨きましょう。習慣が敬虔を育てます。そう人生を、主が輝かせてくださいます。そういう人生を、共に生きましょう。朝型人間になることが、世界をも征服します。習慣が、きっと大きな財産になることでしょう。