私たちのヨハン教会は聖書を重んじる福音的なプロテスタント教会です。「宣教・訓練・賛美」を掲げています。
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はじめてのあなたへ

 ヨハン早稲田キリスト教会のホームページへようこそいらっしゃいました。みなさんを心より歓迎いたします!クリスチャン文化の触れる機会の少ないこの日本で、こうしてみなさんとお会いできたことを嬉しく思います。

 さて、このホームページにいらっしゃったみなさんの中には、まだ一度も教会という場所へ出かけたことのない方もいらっしゃるかも知れません。このコーナーはそんなみなさんに少しでもお力添えできればと思い作られました。みなさんのお役に立つことができれば幸いです。

大丈夫です!しかし、ご家族の方がキリスト教について「よく知らない」ために不安になってしまうことが多いですので、もしそのような場合には丁寧にご説明いただくのがよろしいかと思います。主日(日曜日)の礼拝にいらっしゃっていただくのが一番良いとは思いますが^^

特別な準備は必要ありません。初めての方でも楽しく、リラックスして礼拝や様々なプログラムにご参加いただけます。その日の聖書の箇所は、配布されます「週報」に載っていますのでご安心ください。もしご自分の聖書をお持ちの場合は持ってきていただいても大丈夫です。

聖書は大きく、「旧約聖書」と「新約聖書」とに分けられます。「旧約聖書」は「これからいらっしゃる救い主」について、ユダヤの歴史書、預言書、詩などを通して語られ、また「新約聖書」は「この世にいらっしゃった救い主(イエス・キリスト)」について証しをする書物です。ヨハネによる福音書5章39節には、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」とあります。今までに2,377カ国語に翻訳されており、1815年から1998年の間に約3,880億部が発行されたという統計もあります。まさに本の中の本(THE BOOK)ですね。

キリスト教の中心は礼拝にあります。クリスチャンの一週間は、主日(日曜日)の礼拝をもってスタートします。英語では、「礼拝」にあたる言葉の中のひとつに、Worshipというものがありますが、このWorship はworth (価値)という言葉が語源であり、「価値あるものに栄光を帰す」というのが元の意味です。また、マタイによる福音書18章22節には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 」とあります。礼拝は「主日に皆で集まり、主に栄光を帰すこと」と言うことができると思います。

新約聖書時代の「教会」は、ギリシア語のエクレシア(εκκλησία)に由来しています。これは、「呼び出された者」の意味ですが、イエス・キリストの名の下に呼び出された一人ひとりのクリスチャンを言います。聖書では、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 」(Ⅰコリント3章17節)とあります。また広い意味としては、クリスチャンの集まる共同体のことを指します。使徒言行録2章44節には、「信者たちは皆一つになって......」と記述されています。

「クリスチャン」とは「イエス・キリストを信じ受け入れた者」、「キリストに属する者」の意味ですが、もともとは「香油を注がれた者」の意味です。古代ローマ時代にクリスチャンたちの名誉を傷つける意味で、ギリシアの都市、アンティオキアの非キリスト教徒たちが呼び始めました。聖書では、新約聖書の使徒言行録 11章26節に「キリスト者」とあります。

日本福音同盟(JEA)は、聖書信仰に立つ福音的諸教会の交流・協力機関です。聖書信仰を育むために、主との交わりの中で霊性を育み、みことばに従う敬虔な歩みを求め、主の大宣教命令を遂行するように努めています。

ヨハン早稲田キリスト教会は2006年にJEAに加盟致しました。これからはより力強く、1億2千数百万の日本人に福音が届くことを祈り、教団、教派、諸教会の主体性を尊重しつつ、国内外での宣教のための環境整備をするように努める所存であります。

洗礼クラスにはイエス・キリストを私の救い主として受け入れた方はどなたでも参加できます。主日(日曜日)の14:30から行われています。ご希望の方は教会のスタッフまで声をかけてください。

ヨハン早稲田キリスト教会では礼拝後に聖書勉強のプログラムが用意されています。聖書を読むのは初めてという方から信仰を持たれて長い方まで様々なクラスがあります。世界のベストセラーである聖書の世界を有意義に分かち合いましょう!

 喉が渇いた者よ、来なさい。
 ある日のことです。私はその日、一生忘れられない感銘をうけ、またそれと共に一つの事実を悟りました。船の出発まで余裕があった私は、街のあちらこちらを散歩していました。そのとき、おもしろい光景を見かけたのです。豚の群れがぞろぞろ列になって、ある人について行っているのです。

しかも、豚が一匹も抜け出すことがなく、まっすぐその人について行くではありませんか。本来、豚の群れというのは、御存知の方もいらっしゃると思いますが、なかなか扱うのが難しいものです。左に棒を振ったら、右にぶつぶつ言いながら出て行きます。右側に棒を突きつければ、左にだんだんと抜け出してしまいます。何回か殴っても、物ともせず自分の意地を貫くのが豚なのです。

そんな豚のどっしりしている体を取り押さえられなくて、尻尾を両手で掴んで、汗をダラダラ流しながら引っ張る人。そして、そんなの知らないよと言うみたいに、必死に前を向いて、足をもがく豚をたくさん見てきました。なので、このように豚の群れが人に従ってついて行く姿を見るのは、初めてでした。

あまりにもめずらしいので、私はその後をついて行きました。何かに憑かれたように、我を忘れて進む豚たちは、ついに大きな鉄格子の門に入ってきたのです。なんとそこは屠殺場でした。おろかな豚の群れの行進に、気を失ったようにぼんやりと立ち尽くしてしまいました。私は、豚を屠殺場に導いた人が出てくるのを待ちました。その人が出てきたとき、私はその不思議なテクニックの秘訣を尋ねました。

「簡単ですよ。やつらは豆が好きでね。行きながら、豆を一握り道端にばら撒いておけば、やつらは私に付いてくるのですよ。我を忘れて豆だけ拾って食べ、実は自分が死ぬ所へ行くことも知らないままね。」『我を忘れて豆だけ拾って食べ、自分が死ぬ所に行くことも知らない』私はこの言葉にまるで後頭部を殴られたような気持ちでした。可愛そうなやつら。目の前の利益だけ考えて、すぐ後ろの危険は悟ることができない。快楽にだけ陶酔して、死の道に自ら足を運んだ豚たち。

人間にも、この豚たちと同じようなことがあるのではないでしょうか?人はある意味、いまだけを生きるものです。単に目の前のことにだけに精神を奪われています。目に見えること、耳に聞こえること、皮膚で感じること、体で感じること、こういうものにだけにすがり、笑ったり、泣いたりするのです。無知な豚たちと根本的に何が違うのでしょうか。最近では人間が動物と違うのが何か?といいながらも、自らをみにくい堕落の道に投げ出す人たちもいます。こういう人々の考えは、人間に対しての、大きい冒涜ではないでしょうか。ある哲学者は人間を「考える葦」だと言っています。たとえ、弱い肉体に縛られている人間だとしても、「考えること」これこそがすばらしいことではないでしょうか?人がこの宇宙万物を支配するようになった理由もここにあるのです。

「考える」というのは、人が現在に生きながらも過去を省みて、未来を開拓してこそ「人間が人間らしい」ということが成り立つのです。「考える」というのは現在のみを追及する一般動物の範疇から、人間が人間になる特性を成すのです。要するに、人間は過去と現在を通して、未来を見通す唯一の存在です。現在に足を留めながらも、未来に目を向けるのが真の人間像なのです。世は神秘に満ちています。

高度に発達した21世紀の文明も未だに発掘できない神秘が太古と同じく人間の世界を囲んでいます。世界が神秘に満ちているというのは、人間を超えた存在があると言う事実を論証するものです。人間の知識では達することの出来ない、より一層高度な未知の世界があると言うことです。

世界中の国々や言語をみても、その中に宗教性がない民族や国はありません。皆それぞれの超越者を認め、それぞれの方式で仕えているのです。このような事実は、現代になって消えてゆくどころか、さらに現実的な問題として浮び上がっています。 

我々はこの「考える」という観点から、残されている道を明確にしないといけません。「私」中心の傲慢な態度を捨て、謙遜な心を持って宇宙の神秘に対して考える必要があります。ある昔の聖人は「朝真理の言葉を聞き、夜死んでも惜しいことはない」と言い残しました。私はどこから来てどこに行くのか?人類はどこから始まり、どうなってしまうのか?この世界に始まりがあるなら、終りもあるのか・・・?

これらを単なる人間の感傷的な宗教性だと軽んじてはいけません。数十億の人間から個々の中に潜在している宿命的な課題であり、この問題に対する解決の方法により自らの運命を決めるからです。あなたは、今この瞬間、重大な岐路に置かれています。あなたの現在の位置はどこですか?現在、向かっている方向は、どちらですか?これがあなたの人生を通じて、全てを左右する大きな問題なのです。

今、あなたはとりあえずどこかに向かって歩んでいます。あなた自身は意識できないかもしれませんが、あなたは今自分の運命を決めながら進んでいます。意識していない方向付けほど危険なことはありません。私はあなたの仕事の方向を聞いているのではありません。あなたの人生の方向を聞いているのです。

あなたの命の方向を聞いています。今どこに向かって歩んでいますか?現実の複雑な問題に絡み合わされ、豚の群れのように「悔みの悲劇」に落ちるなら、どうするのですか?人類の歴史の初めから今日まで多くの賢人、哲人の中で、「私はあなた達が求めるものであり、渇望するものだ」と話した人はいません。

唯一、今から2000年前パレスチナの小さい町ベツレヘムで生まれたその方は他の誰とも違いました。歴史を通してその方のような人はいなかったのです。間違いなく、これからも現れないでしょう。その方の名前はどの国、どの場所でも知られています。その方のみことばと行跡を記録した本は、今日も全世界でもっとも読まれるベストセラーになっています。その方についての記録を読む者にある選択を迫ります。

その権威にひざまずいて完全に従順するか、それともその全てを真っ赤な嘘として否認するかの二者択一です。その方の歴史性は誰も否定できません。著名な史学者は、皆その方の実在を論証しました。さらに、その方が歩まれた人生は、到底人間とは思えないくらいに超自然的でした。そうです。その方は、一人の人間ではなかったのです。唯一その方だけが、このようなことを語って下さいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」 

「私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」その方が来られたのち、全ての人の人生の行方が決まりました。「このことを信じますか?」という選択の前で、自らの方向を決めて自分なりのコースを歩んでいくのです。「このことを信じますか?」という標識の前にある道は、左か右かの二つしかないのです。信じるか、信じないか、この二者択一です。

この質問の前で、あなたと私の人生の旅路と永遠の運命が決まるのです。この方が来られてから、世の中は急激な渦に巻き込まれました。今まで沈んでいたものが急に活気をおび、今まで静かだったものが荒波へ飛び込むようになりました。命と平安の源になり、紛争と争いの源になり、感謝と賛美の源になり、混乱と激しい濁流の源になったのです。既に世の終わりはみえています。

人類は終着点に近づいています。各個人の運命が決まろうとしています。一度決めてしまうと、二度とは直すことができない運命、時の流れへと傾いてゆくのです。「疲れた者, 重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイの福音書11:28)「だれでも渇いているなら,わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は, 聖書が言っているとおりに、その人の心の奧底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネの福書7:37、38)あなたは人生の渇きを感じていますか?何にも埋められない空しさを感じていますか?では、その方のもとに来て下さい。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネの福音書6:37)このように、この方は約束して下さいました。この方は、他ならぬ神様として人間として、この世に来られたイエス・キリストです。イエス・キリストを知ってください。イエス・キリストの記録である聖書を読んでください。あなたの、行くべき道がそこには書いてあるのです。